高杉晋作の挙兵と明治維新
平尾山荘に潜伏しているとき高杉は、入手した情報から、俗論党政府による三家老の切腹や正義派幹部の投獄斬首、藩主謹慎、五卿の配流を知りますが、なかでも奇兵隊解散の命令は絶対承服できないことでした。高杉にとって奇兵隊の結成は青春の命を賭けた事業であったわけです。彼はじっと隠れていることに堪えられず、望東尼と別れて正一郎の元へ帰ってきました。
長府功山寺には五卿を護衛して山県有朋、赤根武人(あかねたけと)、伊藤博文など奇兵隊が頑張っていましたので、高杉は「いま決起しなければ俗論党と幕府により長州藩は骨抜きにされ潰されてしまうぞ」と説きますがなかなか聞き入れられません。それは無理もないことでした。第一次長州征伐の命令により幕府の大軍が広島まで迫り、しかも長州藩は今までの高杉らの正義派が粛正され俗論党が政権をにぎり、正規兵も俗論党に押えられているわけですから、挙兵することは無謀に近いことです。
しかし高杉はどうしてもゆずらず、伊藤博文の力士隊、高橋熊五郎の遊撃隊を率いて五卿のいる功山寺で挙兵したのでした。そしてまず俗論党政府を倒し、長州藩の藩論をもう一度討幕路線に軌道修正しました。
驚いた幕府は第二次征長令を出しますが、もうこのときには幕府の権威と力はなく、逆に薩長連合により幕府が倒され明治維新の新時代を迎えました。
もし高杉晋作の挙兵がなかったら、明治維新はどうなったかわからないといわれるほど、彼の決起が高く評価されていますが、高杉の成しとげた偉業の陰には、必ずといっていいほど正一郎の尽力があったのです。
高杉はこののち、第二次征長令により四境(しきょう)戦争となった小倉口の戦いに参謀として出陣し活躍しますが、このころから持病の結核がひどくなり、愛人おうのとともに正一郎の保護を受け療養の身となります。
慶応三年(一八六七)四月十四日、高杉は萩から出てきた両親、妻の雅子、望東尼らに見守られながら、二十九歳の若い命を終わりました。
正一郎が高杉のため最後に世話をしたのが葬儀委員長でした。正一郎は神式により厳粛に葬儀を執行しました。奇兵隊士はもちろん、農民、町民など二千人の葬列者が高杉を募って集まり焼香しました。
葬儀委員長として最後のつとめを果たした正一郎は、これですべてが終わったというすがすがしい気分に満たされ、その気持が失ったものへ対する悲しみを、少しずついやしてくれるのでした。
豪商の家を破産させてまで、四百人におよぶ志士のために尽くした正一郎は、明治の新時代を迎えても、なに一つ要求することもなく、明治十三年(一八八〇)、波乱に富んだ六十九歳の人生を静かに終えたのでした。 |