高杉晋作 白石正一郎    
白石正一郎
幕末の豪商志士、白石正一郎
 日本が徳川幕府の鎖国時代に眠っているころ、世界では文明開化にめざめた列強が弱い国をねらっていました。勤王志士で廻船問屋をいとなむ白石正一郎は日本の危機をさとり、西郷隆盛、平野国臣、高杉晋作など四百人以上の志士を援助し明治維新を成功させました。

鈴木重胤の門下生となる

 白石正一郎は文化九年(一八一ニ)三月、白石卯兵衛資陽(しらいしうへえしよう)の長男として生まれました。正一郎は廻船問屋小倉屋の主人として家業に励むかたわら、早くから国学に深い関心を持っていました。徳川幕府が定めた士農工商の封建的身分制度に反撥する動きは、江戸中期以降にさかんになり、封建制秩序の矛盾に目覚めた各地の豪農、豪商は、強大な経済力を武器に武士を乗り越えようとしますが、それに拍車をかけたのが彼らの高い教養であり、国学思想でした。

 国学は尊王論を尊重しますが、尊王論というのは攘夷論と並んで明治維新の重要な思想でした。しかも国学は商業を否定していません。正一郎の先生となった国学者の鈴木重胤は元商人です。そのため国学を学ぶ商人が多くいたわけです。

 もともと白石家は単なる商家ではなく、学問を好み尊重した旧家で、正一郎の父資陽は国学を学びながら和歌をたしなみ、妻の艶子(つやこ)とともに、すぐれた歌集をのこしています。

 このように恵まれた家庭に育った正一郎は、しっかりした人柄を父から、豊かなこだわらない心と文学的な才能を母から受けつぎ、それが彼の努力と時代の激しい波にもまれることによって、みごとに結実していったのでした。

 安政元年(一八五四)八月、鈴木重胤が福岡県の宗像(むなかた)大社に参拝したとき、二週間ばかり白石家へ宿泊しました。その間、白石家で講義が連日行われ、聴講した正一郎は感激し、入門を申し出て許可されました。正一郎が志士としての活躍を始めるのはこのころからです。彼の志士たちへの援助は国学思想に基づく純粋なものでした。またそれだけに、その行動は利害に関係なく徹底していました。

西郷隆盛との出会い

 安政四年(一八五七)十一月十二日、薩摩(鹿児島県)の西郷隆盛が鈴木重胤の門下生を通じ、白石正一郎を訪れました。それは薩摩藩が中央に進出す るための足がかりを下関につくりたいためでした。迎えた正一郎は四十六歳、西郷は三十二歳でした。正一郎は西郷の人柄にほれ、気の合った二人は夜通し話し あいました。

 正一郎は西郷に薩摩との交易について便宜をはかってほしいと頼みます。西郷は薩摩藩の家老を動かし、正一郎 に薩摩藩御用達の許可をとってやります。こうしていよいよ薩長交易が実現することになったとき、突然横槍が入りました。それは長府藩の分家であり、萩本藩 (本家)にとっては末家の清末藩の一商人にすぎない白石正一郎が薩摩を相手に薩長交易をやるのは出過ぎた行為で不当である、との理由でした。薩摩藩御用達 の権利は本藩の御用商人、中野半左衛門の手に渡ってしまいました。

 西郷が白石家を訪れてしばらくしてから、続々と長州の 志士たちも白石家を訪れるようになり、また九州の志士も上京(京都へ行く)するたびに下関の白石家を訪れたので、白石家にはいつもどこかの志士が居坐って いました。そのため白石家は情報センターとしても重要な役目を果たすようになりました。大仏次郎(おおさらぎじろう)は正一郎の果たした役割をつぎのよう に述べています。「下関の廻船問屋白石正一郎などは、商家の主人らしい穏やかな肌合のまま、表裏ともに志士たちを助けて活動させる有力なパトロンとなって 時代の舞台に登場した。高杉晋作の後ろ盾は彼なのである。白石家は廻船を支配しているから、諸国の志士たちをかくまって逃がすことも、必要な目的地に送り 届けることも自由である。志士たちの会見や集合にも白石の家が安心な場所として用いられた。手びろく他国の貨物を扱うところから、よその藩との交渉や関係 も深い。薩摩の西郷隆盛や土佐の坂本竜馬などもこの家の主人を知っているし、下関へ来れば泊まることになる」

 また幕末維 新史の陰に忘れられ埋もれていた白石正一郎を世に出した中原雅夫は、『幕末の豪商志士、白石正一郎』の中で、正一郎と薩摩の関係をつぎのように説明してい ます。「薩摩と長州との関係は二転し三転する。島津久光の上京によって薩摩がリーダーシップを握ったようにみえたが、下士を中心とする志士はそれに対して 反撥を示し始めた。再び長州派が朝廷を動かし攘夷決行へともっていく。しかし、八・一八の改変によって長州派は一掃される、というようにはげしく一進一退 をくり返しながらも、大勢は攘夷から倒幕へと動いていくのであるが、そうなると正一郎自身も大勢に押し流されていくよりほかなかった。薩摩との交易を志し た正一郎が、商人としては失敗し、志士の協力者としてついには自らも志士として成長していくことになったのも、そのきっかけは安政四年西郷と会ったからで ある。薩長の連合がなければ明治維新の実現はあっただろうか。正一郎は早くから薩摩と手を結び、薩長連合の素地をつくっていたのである」

 長州と薩摩は一度は仲違いしますが、西郷の大きな度量により回復します。それは西郷に対し最後まで変わらぬ友情を持ち続けた正一郎の陰の力であったといっても過言ではないでしょう。

平野国臣の青春に賭ける

 福岡藩の志士、平野次郎国臣が白石家を訪れたのは、安政五年(一八五八)十二月十二日、西郷の訪問より一年あとでした。平野はこのとき三十一歳、迎えた正一郎は四十七歳でした。

 平野は佐幕派の福岡藩の下級武士でしたから、これという後ろ盾もなく、藩からにらまれながら他藩の志士と連絡をとり、尊王討幕運動に身を投じ活躍していました。その平野が正一郎に助力をもとめてきたのです。正一郎と同じ国学にめざめ、身の危険をかえりみず国のため活動する平野の純粋な心に打たれた正一郎は、平野が死ぬまで肉親のように面倒をみてやり援助を惜しみませんでした。そのため平野は十六回も白石家を訪れ世話になっています。

 万延元年(一八六〇)三月、桜田門外の変で幕府の大老井伊直弼が志士に暗殺されたころから平野の身辺はあわただしくなり、危険にさらされるようになったので、再び白石家に逃げてきます。平野には白石家以外に身を隠す安全な場所はなかったのです。

 白石家では新地の女部屋などあちこちに居場所を変えながら、必死になってかくまってやりました。そのため目明し(めあかし)などから七回も執拗な取り調べを受け、また清末・長府・萩藩からそれぞれ呼び出しを受け、きびしい訊問とお叱りを受けました。

 このように白石家では一家をあげて平野に協力して助けたのですが、正一郎に対するむくいは、かけがえのない弟廉作(れんさく)の死と、平野の獄死という悲劇的な結末でした。

 倒幕挙兵に参加する平野、廉作に自分の分身を託し期待した正一郎にとって、犠牲となった二人の死は悲しい結末でした。正一郎は二人に自分の青春を賭けていたのです。しかし悲しみにひたる間もなく、相変わらず訪れてくる志士の世話に明け暮れしながら、後悔はしていませんでした。むしろ国のため殉じた平野に尽くした充足感をおぼえるのでした。

高杉晋作と奇兵隊

 文久三年(一八六三)五月十日、長州藩攘夷決行の第一弾は、アメリカの商船に炸裂し、第二次、第三次攘夷戦も勝ったかにみえ、朝廷からおほめの言葉までいただきました。第四次戦のアメリカ軍艦、第五次戦のフランス軍艦の来襲により長州藩の軍艦三隻が撃沈され、砲台も占領破壊され、さらに外国艦の来襲が続くことが予想されました。この危機にあたり突然起用されたのが高杉です。御前会議で藩主から馬関(ばかん)防衛についての策を問われた高杉は、「有志の者を集めます。農民、町人を問わず力量ある者を募り、奇兵隊を結成して敵にあたれば勝てると思います」と述べ、藩主から「一任する」と命を受け、翌六月六日には、もう下関竹崎の廻船問屋白石正一郎の屋敷に入ったのでした。

 正一郎はいきなりとびこんできた二十七歳も年下のこの青年をひと目みるなり、この人こそ新しい時代を築く人だと直感し、心から信頼し尽くそうと決心します。高杉にはそのような不思議な魅力がそなわっていました。ときに高杉は二十五歳、正一郎は五十二歳でしたが、この出会いにより二人の人生はそれぞれ飛躍充実し、俄然、生彩をおびてくることになります。

 高杉はさっそく白石家を本陣とし、奇兵隊の編成にとりかかりますが、即座に入隊した正一郎、弟の廉作の協力で、たちまち六十人の隊員を獲得することができました。

 白石家では婦女子にいたるまで、隊員の寝泊りから朝夕の酒飯まで世話をしました。正一郎の協力に感激した高杉は藩に願い出て、清末藩一商人の正一郎を萩本藩の士分に取り立ててやりました。

 そののちも奇兵隊に入る者があとをたちませんでしたので、白石家ではまかないきれなくなり、阿弥陀寺町の極楽寺に移りました。奇兵隊の宿舎となった極楽寺の玄関には「来るものは拒まず、去るものは追わず、法を犯す者は罰す、賊をなすものは死す」という隊則が掲げられ、烏合の衆(規律も統制もない群衆)にならぬよう、きびしい軍紀による訓練、行動が要求され守られました。

 元治元年(一八六四)八月四日、長州藩が予想し心配したように、英・米・仏・蘭四ヵ国の軍艦十七隻が来襲しました。奇兵隊も藩の正規兵も一生けんめい戦いましたが、新兵器を装備した連合艦隊には手も足も出せず惨敗し、砲台は占領破壊されました。このとき高杉は脱藩の罪により萩に謹慎させられている身でしたが、講和談判の使者に起用され、賠償問題などを幕府に転嫁し、再び長州藩の危機を救いました。

 こののち、禁門の変の罪により長州征討の幕令が出され、長州藩の政権は俗論党が握り、幕府に謝罪恭順のため三家老に切腹を命じ、その首を持参して幕府に謝罪し、西郷隆盛が間をとりなして長州征伐はまぬがれます。三家老のほか正義派の四参謀、七幹部などつぎつぎに獄につながれ斬首(首を切ること)という身内での血なまぐさい抗争が行われました。身の危険を感じた高杉は逃亡し、博多の平尾山荘、野村望東尼(のむらもとに)の所に身をかくしますが、この博多行きのときも正一郎の世話になっています。

高杉晋作の挙兵と明治維新

 平尾山荘に潜伏しているとき高杉は、入手した情報から、俗論党政府による三家老の切腹や正義派幹部の投獄斬首、藩主謹慎、五卿の配流を知りますが、なかでも奇兵隊解散の命令は絶対承服できないことでした。高杉にとって奇兵隊の結成は青春の命を賭けた事業であったわけです。彼はじっと隠れていることに堪えられず、望東尼と別れて正一郎の元へ帰ってきました。

 長府功山寺には五卿を護衛して山県有朋、赤根武人(あかねたけと)、伊藤博文など奇兵隊が頑張っていましたので、高杉は「いま決起しなければ俗論党と幕府により長州藩は骨抜きにされ潰されてしまうぞ」と説きますがなかなか聞き入れられません。それは無理もないことでした。第一次長州征伐の命令により幕府の大軍が広島まで迫り、しかも長州藩は今までの高杉らの正義派が粛正され俗論党が政権をにぎり、正規兵も俗論党に押えられているわけですから、挙兵することは無謀に近いことです。

 しかし高杉はどうしてもゆずらず、伊藤博文の力士隊、高橋熊五郎の遊撃隊を率いて五卿のいる功山寺で挙兵したのでした。そしてまず俗論党政府を倒し、長州藩の藩論をもう一度討幕路線に軌道修正しました。

 驚いた幕府は第二次征長令を出しますが、もうこのときには幕府の権威と力はなく、逆に薩長連合により幕府が倒され明治維新の新時代を迎えました。

 もし高杉晋作の挙兵がなかったら、明治維新はどうなったかわからないといわれるほど、彼の決起が高く評価されていますが、高杉の成しとげた偉業の陰には、必ずといっていいほど正一郎の尽力があったのです。

 高杉はこののち、第二次征長令により四境(しきょう)戦争となった小倉口の戦いに参謀として出陣し活躍しますが、このころから持病の結核がひどくなり、愛人おうのとともに正一郎の保護を受け療養の身となります。

 慶応三年(一八六七)四月十四日、高杉は萩から出てきた両親、妻の雅子、望東尼らに見守られながら、二十九歳の若い命を終わりました。

 正一郎が高杉のため最後に世話をしたのが葬儀委員長でした。正一郎は神式により厳粛に葬儀を執行しました。奇兵隊士はもちろん、農民、町民など二千人の葬列者が高杉を募って集まり焼香しました。

 葬儀委員長として最後のつとめを果たした正一郎は、これですべてが終わったというすがすがしい気分に満たされ、その気持が失ったものへ対する悲しみを、少しずついやしてくれるのでした。

 豪商の家を破産させてまで、四百人におよぶ志士のために尽くした正一郎は、明治の新時代を迎えても、なに一つ要求することもなく、明治十三年(一八八〇)、波乱に富んだ六十九歳の人生を静かに終えたのでした。

※中原郁夫書『幕末の豪商志士、白石正一郎』から引用