競馬場改築寄附芳名記念碑
大正一一年一一月
厳島神社横のなだらかな坂道を登って行くと、ブロック塀に囲まれた、高杉晋作の詩碑に出くわします。そこをなおも登って行くと、市営住宅があります。
かつてはこの地で、桜山神社の春の大祭に満開の桜の花にかこまれて、毎年草競馬が催されました。
このときに出走する馬は、日頃荷車を曳いている馬ばかりでしたが、この日ばかりは色とりどりの腹かけをして、ビールを景気づけに飲まし、その勢いで走らせたということです。
見物人は、張り周らされた竹矢来の外で盛んに声援を送りました。
場外では、様々な出店が立ち並び、大変な賑わいであったと、近隣に住む古老は昔日をなつかしそうに話してくれました。
この競馬場は、幕末のときには奇兵隊士の調練場であったと伝えられているところで、この広場をとりまく周囲には、松や桜が植えられていました。記録によれば大正二年(一九一三)三月、二百本の桜が植えられていたということです。
日本は昭和十六年(一九四一)十二月八日、米・英に対して宣戦を布告すると同時に全世界を相手にした戦争へと突入してゆきました。それとともに招魂社も国民の士気高揚のために活用されましたが、昭和二十年(一九四五)八月十五日の敗戦という結果は、招魂社・桜山神社にも大きな変化をもたらしました。
競馬場の入口にあった桜山神社の大鳥居は取りはらわれ、競馬場であった広場はその後市営住宅が建てられ、鳥居のそばにあったといわれる小さなお稲荷さんの社【やしろ】もなくなり、明治三十四年(一九〇一)五月二十七日京都・赤間関の間に鉄道が開通したとき、線路が敷かれ境内は二分されてしまいましたが、このとき山陽線の上にかけられた黒い橋の参道も戦後とり払われてしまい、さしもの広大であった境内地は、時代の波に押し流されるかのように、現在に兄る招魂社周辺のみを残すだけとなってしまいました。
この記念律は高さ一三〇センチ 幅八五センチ 厚さ三〇センチの花崗岩で大正十一年(一九二二)十一月に競馬場が改築されたのを記念して、寄附者の氏名を刻んで建てたもので、境内に入るとすぐの右側にあります。
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