由来

―わが国最初の招魂社―

文久三年(一八六三)十月、東行{とうぎょう}高杉晋作の発議により、殉国の志士の神霊を祀{まつ}る招魂場を築くことになり、十二月奇兵隊が下関に転陣したため、候補地を下関に求めた。文久四年(元治{げんじ}元年)正月二十三日、長州藩政府と協議して、新地岡の原、通称桜山を斎場{さいじょう}に選んだ。三月から奇兵隊士によって開墾整地作業がはじめられ、慶応元年(一八六五)八月三日招魂場が落成した。高杉晋作はその感慨をつぎのように詠んだ。

猛烈奇兵何所志 要将一死報邦家
可欣名隊功成後 共作招魂場上花
弔らわる人に入るべき身なりしにとむらう人となるぞはづかし

明治五年(一八七二)八月二十八日、防長各所の招魂場の神霊をことごとく桜山招魂場に合祀、九月一日には下関旭陵{あさひがおか}にあった豊浦藩報国隊士の霊を合した。

昭和三十四年(一九五九)吉田松陰没後百年祭にあたり、山県有朋等二十三柱を追祀して、神霊は三九一柱となった。

毎年四月の大祭には満開の桜が全山を飾って神霊を慰めている。

桜山招魂場

 元治元年(一八六四)一月、高杉晋作の発議によって創建された招魂場で、慶応元年(一八六五)八月には社殿も造営され、招魂社としてはわが国最初のものといわれている。創建当初は、文久三年(一八六三)五月十日に始まる下関攘夷戦において戦死した奇兵隊士の霊を弔うものであったが、後、小倉戦争(四境戦争)や北越戦争(戊辰の役)で戦死した者、さらには長州の尊王討幕運動に輝かしい名をとどめる吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、山縣有朋らの霊も加え、今日では三百九十六柱の志士がここに祀られている。
 この招魂場のもつ尊い意味は、偉大な指導者吉田松陰から奇兵隊小者弥吉といった名もない者にいたるまで等しく祀られていることで、整然と立ち並ぶ霊標の姿は、奇兵隊における武士、町人の身分制を越えた新しい時代への理念を伝え、胸を打つものがある。
 なお、この地は奇兵隊の調練場跡でもあり、 招魂場となって以後桜を植えたことから、桜山と呼ばれるようになったもので、下関市内の数多い維新史跡でも、ことに重要な意味を持つ聖地ということができる。